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渡辺先生のデンバー奮闘記

2003年8月16日 デンバー太鼓演奏 タガワ・ガーデン

「タガワ・ガーデン」(花の見本市会場?)に行き、初めてデンバー太鼓のメンバーに会った。まず、一人一人握手を以て簡単に挨拶を交わしてから、今日デンバー太鼓が演奏するステージを下見した。 その後、地元紙のインタビューを受けた。同新聞には、私が渡米する前に、私のプロフィールが紹介されている。インタビュー内容は、滞在中の行動予定(日程)、指導に対しての方法など。また、聾唖者ワークショップでの指導の仕方(風船使用)について話をしたが、記者は特にこれに関心を寄せた。

デンバー太鼓の演奏を見て・・・
午前11:00~14:00の間に4回の演奏を行った。
5分程度の長さの曲を組みあわせて20分間。

特筆すべきは・・・まず、出で立ち。衣装は一応半纏を着ているのだが、着付け方が反対で死装束と同じ右前にあわせてあり、下は半ズボンで中は普通のベルトをしている。足元は地下足袋、さらしは巻かず、Tシャツ。鉢巻は、ただのヒモ。 このデンバー太鼓の衣装の不思議な感覚を例えて表すとしたら・・・。

海外で日本食を食べに行くと、店名は「将軍、大名、大将」と日本名になってはいるが、店の中は、鎧・兜や中国産、韓国産の提灯や扇子が飾られ、「実際日本ではこんな店は無いだろう」という状態や日本食とは名ばかりでこれが日本食!?といった物が出て来たりするその違和感と同じである。 デンバー太鼓をイメージするとしたら、正にぴったりであると思う。

我々日本伝統芸能の伝達者としては、その何とも奇妙な出で立ちには歯がゆさを憶えた。

その後メンバーと自己紹介、打ち合わせなどをした。

初めに挨拶をし、あらかじめ日本から持ってきた我々のコンサートビデオを鑑賞してもらった。ビデオ鑑賞であるのに反応が凄く、曲目のクライマックスや、色々な技術に対して盛んに拍手をしていたのが印象に残った。

この一件で直接日本の和太鼓に触れていないのだと私自身は感じ、意欲を新たにした。

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2003年8月17日 デンバー太鼓演奏 ドラゴンボート

今日は午後からホテル内のジムで自主トレを行い、その後、影山と合理的に時間を使うために、これからの指導法及び役割分担をし万全に備えた。
17:30にホテルロビーでピックアップのはずだが、デンバー時間があるのか?担当者は15分遅れ。(私は遅刻は大嫌いだ!)
とりあえず現場に向かう。会場は思ったより人が少なく、何となくピクニック気分。
「ドラゴンボート」とは何だ?一見するとボートの仮装行列といった感じ。
その祭り会場の一角に10tトラックのウイング付き特設舞台があった。
そこで表彰式が行われる。太鼓を打って客寄せをしたい!という事らしい。
観客は200~300人位。
皆、ビールを飲んだり、ランチボックスを食べたり、子供達は走りまわり、家族で、ピクニッックを楽しんでいるといったところだろうか。
突然始まった和太鼓の演奏には、興味津々の様子である。
そして、デンバー太鼓のステージが終了すると大きな拍手。
観客はみな喜んでいた。
だが、私にはこんな演奏でいいのか? としか思えなかった。

これが、和太鼓なのか? ・・・ 疑問に思えて仕方なかった。

帰り道、リーダーのI子さんに、練習場を見学させてもらった。
練習場はびっくりするほど恵まれていて30坪くらい。十分な練習スペースだ。
練習場を目の前にし私自身もまた、やる気が沸いてきた。
少し時間があったため、リーダーの意見を聞いてみた。
デンバー太鼓としては何を習得したいのか?
彼女の意見は消極的なものであった。
「今までのデンバー太鼓の曲を手直しして欲しい」
新曲を習うことになると、時間に遅れる人や、一回位しか参加出来ない人もいるので、今までの曲を手直しすることで、十分だ!という。
「こんな機会は又とないのだから新曲に挑戦しなさい」と影山に通訳をさせた。じっくりゆっくりと話をした。話しをするなかで、外見は日本人でも内面はアメリカ人なのだ!ということを強く感じた。私の本領が発揮できるものをやるためには、彼らとの感覚の差をどうにかしなければならないと思う。 最終日には我々とデンバー太鼓の合同コンサートを予定している。

何とか形に残る演奏を一緒にしたいものである。

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2003年8月18日

今日は午前中に自主トレーニングをし、18:00~20:00までジュニアデンバー太鼓の指導。時間になっても始まる様子がなく、聞いてみると「まだ3人位は来てないがどうしたらいい?」とこんな調子だ。

指導は半纏の着方、帯の締め方、鉢巻の仕方から始まった。

初めて見る正式な半纏に子供たちは目をパチクリ。多分ハロウインの運動用コスチュームのように見えたのだろう。参加者の肉親もたくさん見学に来て居り、正式な半纏の着方に強い関心を示していた。

次に基本打法の指導。この時点でやはり全く基本が出来てない事が分かる。バチの持ち方、腰の落とし方、手の位置、体全体のバランスが全く分かっていなかった。

子供たちには集中力がなく、基本練習にすでに飽きてきていた。

和太鼓の基本の深さがわからないのだ。思い切って細かい事を注意せず、「打ち込み」を始めてみる。
この「打ち込み」は、私自身が開発した、基本と曲が一体になった練習曲のことである。
これには子供たちも大喜び。目の色を変えて、太鼓を打ち始めた。手にマメができても痛がることもなく、約一時間打ちっ放しで打ち込んだ。始めは不安そうな家族も最後には興奮し、体をリズムに合わせて子供たちに大声援。全てが終わった時には自然と拍手が興り、全員が一つのことをやり遂げた達成感でいっぱいになっていた。

総評  子供達は素直で単調な基本には集中できず、同じ基本でも曲と一体になっているものには、マメができても喜んで太鼓を打つ。やはり楽しい事が“基本”という事だ。

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2003年8月19日

本格的にデンバー太鼓の指導が始まった。何やら期待感いっぱいの様子なのか、メンバーは落ち着かなかった。 礼とともに練習開始。

1.ストレッチ:
体全体の筋肉をのばし、体内の血液循環をよくするために行うもの。

2.補助的な筋力トレーニング:
(腹筋、ランジ、スクワット、腕立て伏せ、バチを持っての素振り)
このトレーニングは太鼓打ちが必要な筋力の補助、または維持するためのもの。30分行う。

3. 構え方(スタンス):
メンバーは、ただ太鼓の前に立つだけで心(精神)が備わってないため、どこか抜けている。“構え”とは“身構えている”という事。
すぐに打ち出せる状態の事を指すのだ。 バチの先に“気”が集中するまで時間をとられた。

4.基本手組の練習:
「打ち込み」を指導。
太鼓を打つ人は、最低限の基本的な打ち方を知らなければならないが、それを知らないチームは曲を打つ事だけで練習を終える。その結果、皆が揃って曲を打てるようにはなるが、プロセス(段階)が無いために技術面では全く上手くならない。曲が打てることは、大したことではない。

稽古内容は上記の通りすすめたが、とにかく早くグループのメンバーに慣れることが「最大の鍵」だと考えた。 やはり始めは好奇心の目で見られていて、人柄なりを計られてるような気にさせられる。まずはそんな事など考えずに、デモンストレーションをする。

彼らは日本人よりも感情を表に出すので、一気にこちらに近づいてくるのが分かる。後は彼らが悩んでいる所を聞き、“何が欲しいのか?”“どうしたら上手くなるのか?”という点を身を持って示す。 すると自然と心は一つになる。
とにかく私は、「明日からが楽しみだ」を口癖に言っていた。

総評  “和太鼓”と評価すると全く評価はできず・・・。
しかし、これからが本番!まかしてガッテンと言う心境である・・・!?

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2003年8月20日

ジュニアデンバー太鼓 指導
午前中自主トレーニング  13:00―15:00までプール
練習は18:00から開始。子供たちは前回より我々に対して心を開いている。積極的にコンタクトを取りにくる。家族の見学も増えている。

私は前回子供たちが途中であきた基本手組をもう一度試みた。
子供たちは素直に、また懸命についてきた。そして前回より上達していたのだ。左右のバランスがよくなり、自然に力を抜く事が少しずつできるようになっていた。
私は内心、とても嬉しかった。

いくつかの基本手組を試して休憩を10分間とり、再度練習に入る。曲を教えたが、先程の基本的な打法だけでは太鼓を打てない。(デンバー太鼓の亜流のクセが出てしまう)とにかく、あまり焦らないで、また、子供たちをしからずに曲を細かく丁寧に教えていき、なんとか4パターンの基本手組を教える事ができた。

最後の15分はバチとの遊び方。(撥の投げ方やまわしかた)などを教え、興味を持たせて終了した。

総評  一度ついた癖はなかなか直らない。やはり、始めが肝心である。
そして。。。病院にいくときは医者を選べ(先生によって差が出る)

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2003年8月21日

今日はJ氏と「レッドロックス」というコンサート会場を視察した。

「レッドロックス」はアメリカ大陸ならではの規模で、一言で言えば巨大な赤い岩により創造されたステージで、その大きさは想像を絶する。
客席は9000人を収容。舞台の大きさも最高で、このような所でコンサートが出来たら素晴らしい!と思った。
何しろ、私がこれまで見た定設のステージの中ではロケーションも含めてトップである。私にとっては、20年ほど前にエジプトのカイロにあるピラミッド(スフィンクス)の前で演奏をした時以来の感動であった。ただ、標高が1800m程あるので、歩いて登ったが、呼吸する自体がかなりキツイと感じた。
息切れをして、空気をいくら吸ってもたりない感じを憶える。中南米のコロンビア、ホンジュラス、メキシコなども標高が2000m近くある。そこで演奏をして息苦しかったのを思い出した。
いきなり来てここで二時間のコンサートを行うのは無謀と思われる。

夜は18:30からデンバー太鼓の指導。
メンバーも、ようやく我々のハードな練習に慣れてきて、次は何をするの?と期待感でいっぱい。口癖のように「あそこが痛い、ここが痛い」と言っている。練習の内容は、力を抜いて太鼓を打つ!というもの。
今は、メンバー全員が硬く、力みすぎ、スピードが出ないという状態。

スピードからパワーを生み出す方法をじっくり時間をかけて教える。
メンバーも少しずつではあるが、出来るようになり、自分でも音の違いが分かるようになってきた。周りで見ていたメンバーも音が違うと言い出した。そこで休憩をとり、メンバーに聞いてみた。「今、どんな感じ?」体験した人すべてが「何となく体全体で打つ事がわかったみたい、」「力を抜くのはこんなにラクなの?」「今までの自分と違うみたい。」あるメンバーは私の事を“神様”と呼んだ。彼は、27年間続けてきて初めて目からウロコが取れたの言った。そんな意見を聞き、心地よい満足感が私の体を癒してくれた。

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2003年8月22日

今日はこちらに来て初めて一般公開のレクチャー&デモンストレーションを行った。
午前午後は自主トレ、16:30に領事館の公用車でピックアップ。
コロラド・スプリングスにある日米協会へ。
そこで、19:00~20:30(1時間半)の公演。
J氏は“車ですぐ着く”と言っていたがとんでもない!100km以上も離れているではないか!そんな訳で会場入りしたのが18:25。

荷物をおろし、衣装に着替えたが、セットアップに30分しかない。慌てて会場を下見し、OHP(スコアーを映し出す機会)の準備を頼むのが精一杯だった。

あっという間に開演。公演の内容は館長の挨拶から始まり、デンバー太鼓によるデモンストレーションが行われた。続いて我々のレクチャーになる。

まずは、影山と私がステージ上で挨拶するのだが・・・

アクシデント発生1:
事前に頼んでおいた私のマイクが無い。本当ならば私がマイクを持って挨拶をし、和太鼓の歴史や太鼓やバチの種類を説明、それをJ氏が通訳するはずだったのだが、そのマイクが無い!仕方ないので私は大声を張り上げながら説明。なんともギクシャクしたレクチャーになった。(マイクは頼んでおいたじゃないかぁ・・・)それでも観客の反応が良かったので、私はひとまず安心した。

次は、デモンストレーションで影山が大太鼓、私が締太鼓を演奏し、最後にデュオで中・大太鼓、二つの太鼓で演奏をした。(特に和太鼓説明、効果音の所は太鼓を打ちながら効果音を出す時には、マイクが欲しかった。)そして、最後に、一般の人に和太鼓を打ってもらうワークショップを行った。

アクシデント発生2:
会場の皆さんに入場する際に配ってもらっているはずの譜面が無い。

アクシデント発生3:
舞台の中心にOHPで映し出されるハズの譜面が写らない。通常、OHPは透明なクリア原稿を使うのだが、用意されていたのは普通の紙であった???当然OHPは写らない。何ということだ?

とにかく、私は譜面を使って教える手段を全て奪われた。
この件に関して、何度も打ち合わせをしたにもかかわらず。。。
担当者は、OHPがあるから、会場全員に譜面を配る必要がないだろうと判断した!というのだ。そして、OHPに関しては、私は頼んだだけで、どうしてこうなったのかわからない!と言うだけだ・・・

仕方ないので、私は腹をくくり、お客さんに「私と一緒に太鼓を打ちたい人」と大声で呼びかけた。すると「ウオー」と言って多数の方の手が上がった。

まずは子供から4人一組×3回、大人を4人一組×3回舞台に上げ、基本の打ち方を(マイクも無しに)全ての組ごとにパターンを変えて指導をした。

終了した後は素晴らしい拍手と喝采が起こり、本当に本当に安心した。 その後、レセプションに招待され、大歓迎を受けた。

会場には日系の方がたくさんいて、私を抱きしめてくれる人、涙ながらに日本の音を懐かしんでくれた人が大勢いた。「是非今度は天邪鬼の演奏を聞かせてくれ。」「みんなで働きかけ、天邪鬼を呼ぼう」と言ってくれた。それが一時の夢でも私は“ああ~今日来てよかったな~”と思った。

そしてアメリカで力強く生きている日系の方々から新しいエネルギーをもらった気がした。

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2003年8月23日

今日は、午後から軽い自主トレ。15:30にピックアップされ、ボルダーのアジアンフェスティバルに参加。率直に言ってしまうと、アジア地域の大道芸大会のようなもの。控室はないし、時間は約一時間遅れ。待機場所は裏の駐車場。少しつらい・・・

ホテルを出るときに、着替えるところが無いので道場で着替えてほしいと言われ、衣装を着たまま、約6時間・・・正直、疲れた。フェスティバル会場を見て・・・果たしてここに出演して良いものか?迷った。雰囲気からすると我々は飛び入り参加と言う感じ。しかし私は、日本政府から派遣された文化交流使で、太鼓の先生と紹介されたらしい。でも状況的には日本の縁日のイベントで海外の特別ゲストがパフォーマンスを披露するといったような・・・。だが、我々は出演するとなれば祭りを楽しもう、日本の太鼓の素晴らしさを伝えなければ!と考え舞台に上がり、演奏をした。反応はすごく良く、終了後「CDは無いのか?」「握手をしてくれ」と大勢の人にいわれ、面目は保った。気分も晴れた。しかし、日本(伝統芸能)がもっと認知されるには、まだまだ努力が必要である。日本人学校や日米会館などで、和太鼓などの邦楽教室を開校すべきだし、本物の生演奏を見せる事も大変重要なことだ。

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2003年8月24日

今日はオフ。久々にリラックスしている。デンバー太鼓のI子さんがショッピングに連れて行ってくれた。その後、ディナーを共にし、彼女の考えを色々聞いた。

一つは彼女が和太鼓を続けている理由。彼女曰く「父母や先祖達が戦争など大変な思いをしてきた事、その中で育って来て、自分が生きている事に和太鼓を通して恩返ししたい。自分には祖国日本の血が流れていて、その伝統芸能である和太鼓を広くアメリカに紹介したい」

戦争を知らず、偏見の中で生きた事の無い私はわずかな事しか出来ないが、文化交流使としてもっと日本を知ってもらい、デンバー太鼓が広くアメリカで知られるように協力したい。と思った。

私は使命感をもって、この仕事を続けていきたい。

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2003年8月25日

午後から自主。16:30に領事館の公用車でピックアップ。
デンバー植物園でのレクチャー&デモンストレーション。
会場はとても広く、舞台も夏場だけ定設のステージがあり、スペースも充分だった。

今回は事前に入場者にスコアーを配っていたため、レクチャーは大成功。
終了後は大勢の人に囲まれてのサインとフラッシュの嵐。「次回はどこで公演?」「もっとやってほしかった。」(一時間半はゆうにやっているのに・・・)とにかく、充分な手応えがあり、私自身納得できた公演だった。

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2003年8月26日

今日は午後から自主トレ。18:00ピックアップ、18:30からデンバー太鼓の指導。

内容は譜面の読み方。(邦楽の立て譜)これは実に合理的で誰でもすぐ憶えられる。知っておけば自分で作曲、又は思いついたフレーズなど記録に残しておける。約一時間掛けて新曲のための譜面を教えた。コピーはさせないで全員に書かせた。自分でやらないと憶えられない、そしてありがたみがわからないからである。

譜面を見ながら実技指導。約一時間、休憩を取った後、自主トレーニング(メンバーだけで練習をさせてみた。)約30分、皆必死で練習に励んでいた。残り30分で最後の打ち込みに入る。今まで教えたフレーズをつなげて30分間フルに打たせた。初めはとまどっていたが次第に慣れて来て、ラスト10分では(我々もまじえて)全員汗だく。気持ちよい汗をかいた。終了後、皆に感想を聞いてみた。

「興奮した」「最高」を連発。

新曲も残すところあと少し、自分も気合を入れなおし、がんばろう。

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2003年8月27日

今日は色々なデスクワークが溜まっていたため、自主トレ無し。

16:00 ホテルピックアップ・・・のはずが迎えに来ない。
J氏は18分遅れてやっと来た。(実はこれまで書いていないが、彼は時間通りに来た試しはない。)とにかく急いで、現地へ(ロングモント・カルチャー・センター)向かう。到着したのは45分後。ホテルには20分遅刻して迎えに来て、その後の移動に45分かかり、開演は18:00!!!
無理だぁ!!!
実際に演奏する側の事はほとんど考えていない(知らないのか?)。
最低限でも、舞台を見て、衣装に着替え、リラックスの時間など90分は欲しい。
今日は、さすがに皮肉を込めて「間に合わなかったらどうするの?」とJ氏に聞いた。J氏曰く「アメリカ時間だから大丈夫。」
答えになっていない。うーん、この人がそうなのか?お役所がこうなのか?本当にアメリカ時間が存在するのか?頭を悩ますところである。

とにかく、館長と対面し、さっそく舞台に案内してもらい、そこでびっくり!
非常に狭い。おまけに野外。間口3.6m 奥行き2.7mしかない。
舞台まわりは芝生で、なんと表現すれば良いか・・・
日本にあるマンション郡の中にある中庭みたいな感じ?
とても演奏に適している場所とは思えない。
「ここには何人来る予定ですか?」と尋ねたら、
館長は、「40人しか来なくても200人来ても不思議じゃないわ」
と、そんなことわからない!の如く、あっさり答えた。
そして私は、近くには民家があるので、太鼓の音にクレームが出ないか心配になった。
その時、運悪く、雷が鳴り、雨が降り出した。このままでは「中止かな?」と思っていたところ、館長は、「大丈夫、他に部屋があるから」と答えた。
(部屋?広いのか?演奏できるのか?)

その後、私はJ氏と打ち合わせ。
影山は、マイクのチェックをするため、雨の場合に用意された部屋を見に行った。5分ほどして蒼い顔をした影山が戻って来ると「先生、とても演奏できるスペースをとることはできません。テーブルもたくさんあるし・・・」無言・・・。内容を聞くと間口3.5m 奥行き8m 中心に食事用のテーブルと椅子が並んでいるらしい・・・。テーブルを片付けたとしても、ここでは観客が入らない!
私はとにかく雨がやんでくれる事を祈るしかなかった。開演5分前に雨が止んだ・・・しかし、観客は5-10人位しかおらず・・・J氏「開演をのばしましょう」、そうするしか他に手はなかった。雨で出足がおそくなった事と、この場所に人が来る気配はまったく感じられなかった。

開演は30分遅れた。しかし、思ったより人が集まっていて、100人程になっていた。それでも見た目はパラパラと言う感じだが・・。
まず、デンバー太鼓の演奏が開始。するとゾロゾロと人が増えてきて、デンバー太鼓が終了し、我々のプロフィールが読まれる頃には相当な人が集まっていた。
そうして我々のレクチャー&デモンストレーションが始まり、予想以上に集まった観客を巻き込み、大成功のうちに終演を迎えた。
私が「どうもありがとう」と頭をさげて礼をすると、不思議な現象がおきた。何と芝生で座っていた観客が全員オールスタンディングをとったのだ。
これにはいささかびっくりした。そして「ああ~、今日もやって良かった」と思えた。
一時はどうなる事かと悩んでいたのでホッと一安心。

これまで、デンバー太鼓と公演をしてきて、気になることがひとつある。
それは今までの全行程に言えるのだが、控室が用意されていないのだ。我々に用意されていることはあっても、デンバー太鼓にはまったく無い。いつも、メンバーはトイレで着替える。控え室でなくとも、せめて着替える部屋のリクエストは出すべきなのに、彼らは何もいわずトイレで着替えを済ませるのだ。
主催者側との打ち合わせの際に、何故言わないのか?
主催者と演奏者は、お互いを尊重できる関係を築かなければならない。主催者は全ての権限を持ってはいるが、演奏者を敬う気持ちが大切だし、演奏者は、ある程度のプライドを持つ事も必要だ。
彼らの意識改革は必要と思われる。

嬉しい事があった。コロラド・スプリングスで公演したときのお客さんが4人来ていて、9/5のコンサートにもかならず行くから」と言ってくれた。ファンのありがたさをしみじみと感じた日であった。

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2003年8月28日

今日は長い一日になりそうだ。それと言うのは昼に学校公演と、夜デンバー太鼓の指導が重なっているため。
11:30にホテルでピックアップ。J氏はやはり、20分遅れてきた。
私は学生時代、無遅刻無欠席生徒であった。
今もそれは変わらず、仕事にしろ、人と会うにしろ遅れた事など無い。
私は時間にルーズな人はあまり信用しない事にしている。
(いい加減ハラ立たしい)
とりあえず車に乗り込み、現地コロンバイン・ヒルズ小学校に向かう。
約40分で到着(12:10分)。1:00からのワークショップなのであまり時間が無い。何となく“変更があるかなー”と予感がした。(そう思ってしまう私が怖い。日本ではこんな事は皆無)

一回目のワークショップはスムーズに終わり、2時からのワークショップに備えていたところ、予想的中。J氏が「すいません、学校側で“もっと時間を延ばしてくれ”と言っているがやってくれます?」
この公演は始めから30分×2回(1時~と2時~)という約束であった。基本的に伸ばしても問題ないのだが、すでにデンバー太鼓と打ち合わせは終わっている。事前の要望にあわせて、90分公演を30分公演に短縮してプログラムを組んであったのだ。突然「長くしてくれ」と要求する神経は、本当に理解に苦しむ。きっと、一回目の公演が想像以上だったからだろう・・・演奏者と主催者側の感覚の違い。しかし、簡単に言えば我々は30分の公演用の道具しか持ってきていないのだ。我々は我々で前の夜に翌日の打ち合わせをし、段取りが済んでいる。主催者側の強い要望に、「いや、出来ません」とは言えない。

仕方ないので、5分の時間をもらって影山と打ち合わせをやり直し、45分間に延ばしてワークショップを終えた。子供たちは意気ようようとして太鼓を打っていた。

15:30分にホテルに戻り、伝票整理やレポート書き、シャワーだけ浴び、デンバー太鼓の指導へと向かう。18:00-21:30。
内容は新曲のエンディング。譜面を書かせてその稽古。メンバーもすでに新曲に対して情熱を持ち、辛い稽古にもついてくる覚悟は出来ている。手の皮が破れても初回のころはくたびれるとサボっていた人も今は必死でついてくる。休憩を取ってもすぐに音を出し始める。分からない事があればどんどん聞いてくるようになり、皆いい顔になった。8時ごろ、メンバーは喜びと興奮の中にいた。何度も何度も繰り返し繰り返し打った。そして終了。

今回も一人一人に新曲の感想を聞いてみた。
「達成感がある。」「体は疲れたけど心にエネルギーが沸いてきた。」「音を表現する事を始めて知った。」「こんなに速く曲を覚えた事が無いので集中できて最高の気分だ。」

私自身も持てる力を精一杯出し切っているので、終了後の心地よい疲れと充実感につつまれる。こうして長い一日は終わった。

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2003年8月29日

今日、今までの中でもっともハードで長い一日だった。
9:00にホテルでピックアップ。コランバイン・ヒルズ小学校へと向かう。
約二時間半の道のり。途中、「神の庭」と呼ばれる所で軽く食事をとり、12:00頃到着。
レクチャー&デモンストレーションの会場は、2ヶ所のアコーディオンカーテンを開くと食堂になっている休憩所。舞台に使うには奇妙と言えば奇妙。

13:00からレクチャーを開始。
生徒は小学校の高学年と中学生300人あまり。
アクシデント発生。OHPはあったがスコアー(譜面)を配ってなかった。そしてスコアーを映し出されるのは、右側の壁。生徒はスコアーを見るのに90度クビを傾けなければならなかった。写す場所を、考えてほしい。
細かい段取りにミスがあると、本当にやりづらい。
仕方ないのでスコアーは当てにせず、口伝と見本を示して1・2回目をレクチャーした。私達は、子供たちに体験してもらう時間に3~4人ずつ舞台に上げて欲しいと言っているのに関わらず、学校の先生は、20~40人とどんどん並ばせる。指導する方の気持ちはお構いなし。
太鼓の数は4鼓なのに300人全部やっていたら日が暮れるではないか!
区切りの良い所で終了の合図を出し、終演。今回は先生たちに終了後に写真を取ってくれとねだられた。
私達の公演に関する詳細は、全てJ氏が行っている。すなわち、私達の現地マネージャーなのだ。
ジュニアの公演が多いのに、実はJ氏、子供が苦手だそうだ。そして、彼の行動は、若干配慮にかける部分がある。こちらが頼んであることが遂行されていなかったり。。。同じ事を何回もやっているのにできないことが多い。
演奏者としては、大変つらい・・・。
昨日のコロンバイン・ヒルズと今日のコロンバイン小学校で気になる点があった。有色人種が一人もいないということだ。生徒には数人いるのだが、先生はみな白人。まさに白人社会の真っ只中という感じを受けた。差別があるのだろうか・・・
デンバー太鼓のリーダーI子さんが言っていた。「祖先や父母が受けてきたもの(差別)。それを打開したくて彼女は太鼓を続けているのだ。」と

15:15には学校を出発。18:00からジュニアデンバー太鼓の指導。
だが、渋滞にはまり、18:10から指導開始。
今回のメンバーは前回のメンバーとは違っていて、教え始めてすぐやる気が無いのがわかった。アクビはするし、集中はできないし、憶える気力も無い。初めてイライラしている自分に気づいた。怒鳴る事も出来ない状態。まして今日はリーダーのI子さんが用事でいない。疲れが溜まってきているのか・・・
だが、自身でテンションをあげながら教え始めて一時間。子供達もなんとか様になってきて、気持ちが集中でき始めた。ここで、一人ずつ基本の打法を演奏してもらう事にした。

それにしても、見学している両親達は自分の子供に目を細めるだけ。たとえ集中できてなくても、だらけていても注意などまったくしない。どの国にも親バカはいるものだ思って笑った。

大人のメンバー、5-6人は付き添いで来ていたが、ほとんど何もしない、出来ない。自分だけ良ければいいと言う感じがした。ジュニアがやっているのにお喋りをしたり、今度発表する新曲の自分のパートを練習したり・・・。

和を持って音を作り出す和太鼓の精神を、もっと教えなければと痛感した。

8/30 ~9/1 OFF

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2003年9月2日

今日は全日程の中で最も朝早いピックアップ。7:15にホテル出発。
サミット小学校8:10分到着。
9:00と10:00の2回レクチャー&デモンストレーション。やはり、ここもOHPはあったがスコアーは配られてなかった。そして相変わらず控室が無い。

公演が終わってから、私はJ氏に・控え室と譜面の用意は必ずするように強くお願いをした。
とにかく、公演にしろデンバー太鼓指導にしろ、人と向き合って付き合うには忍耐と努力が必要だ。
大切にしなくてはならない真心(人を気遣う気持ち)を和太鼓という伝統芸能を通して広めていかなければならない。
今日の内容は30分ずつの2回公演。30分でレクチャー&デモンストレーションは少し時間が足りない。2回目の公演は約40分になり、充分な内容をすることができた。
そして18:00~21:00までデンバー太鼓の最終指導。色々な面で大変だったがやり終えた後は充実感と達成感が交互におとずれ、形容し難い気分だった。メンバーも最終日のせいか、普段の倍もがんばっているように見えた。

締太鼓のソロと言う課題を残して今回の指導の全行程を終えた。
後は9/5のサヨナラコンサートをやり遂げる事だけだ。

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2003年9月3日

18:30か20:30まで聾唖者のためのレクチャー&デモンストレーション。約2時間と長丁場の公演だったが、途中“休憩をしましょう”と呼びかけるも続けて欲しいとの要望により、休憩無しでレクチャーした。 客の動員数は約40人と少ないが内容の濃いレクチャーになり、一般の人とほとんど変わらずに打てることができるようになった。私が思った事は、“違いは一つ、通訳者が必要なだけ、(心の通訳者)”それはどこの国に行っても言葉の違いはあるものでそれとまったく代わりはない。自分の指導に自信が持てた。有意義な時間だった。大成功。

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2003年9月4日

今日も朝早くからレクチャー&デモンストレーション。8:40ピックアップ。
現地インターナショナル・スクールへ。9:10に到着。
控室はあったが普段使われていない舞台袖。物置と化していてホコリまみれ。うーん。無いよりはましだ。

10:00~11:00の一時間行程。すべてスムーズに事が運び、OK。
アクシデントはJ氏がOHPを逆さまに映し出し、譜面が反対に見えていたことくらいか・・・。私より前にスクリーンがあったため、気が付かなかった。後から人に言われて知りました。
J氏 「オゥー私の間違えです。私OHP苦手なんです。」

明日は19:00~21:30までコンサート。最終確認のリハーサルをした。
コンサートが大成功に終わる事を祈る。

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2003年9月5日

ファイナルコンサート

15:00にホテルでピックアップ
15:30現地到着

メンバーの半分位しか揃ってなかったが時間がないので太鼓の積み下ろし開始。会場の第一印象は名前自体は“チャーチ”であるが、日本の神社を思わすたたずまい。
舞台を見たが、全員で上がれるほど大きくなく、(一応ためしてみたが)仕方ないので舞台下も使用することでリハーサル開始。

デンバー太鼓のメンバーはリハーサルなどをほとんどした事がなく、やはりセット転換に手間取った。
昨日も3時間掛けて指導したのに相変わらず遅い。
太鼓の場ミリ(マーキング)に思っていた以上に時間がかかった。
結局我々のリハーサルは出来ず、セットを置く段取りにとどまり、開始の時間を迎えた。

18:15セットアップ完了。衣装替えをし、とりあえず全員のスナップ写真をとるころには18:40になっており、招待客がちらほら入ってきていた。20分遅れで、19:20開演となった。

内容
1.総領事の挨拶(他1名)
2.デンバー太鼓リーダーの挨拶
3.演目の紹介=演奏x3
4.渡辺+影山 登場及び挨拶
  日本太鼓の歴史とその用途の説明、効果音の説明と実演。
  和太鼓を使用して諸外国リズムを打ち出して、観客側にそのムード(ニュアンス)が伝わる実演。
  (充分に伝わり、理解してもらうことができた様子)
5.影山の大太鼓ソロ
6.渡辺、締太鼓ソロから神楽
7.中+大太鼓使用してのユニット演奏
8.デンバー太鼓リーダーによる感想、感謝、及び記念品の贈呈
9.渡辺のデンバー滞在中の感想から新曲の説明
10.デンバー太鼓+渡辺+影山全員揃っての「躍動、上がり屋台」の演奏

全てが終了、予想通りオールスタンディングオベーション。本当に気持ちの良い拍手であった。メンバー一同感無量。夢中で抱きつかれ、びっくりするやら嬉しいやら。ホッとする間もなく、記念写真を撮ると言う事でフラッシュの嵐。興奮して何かわからず、早口の英語で訴えてくる人、目に涙をためて「ワンダフル」を繰り返す人、盛んに握手を求める人。

私はこの時が一番好きだ。そして自分は人が好きなんだと毎回思わせてくれる時間。

達成感とその余韻の中でレセプションが始まり、総領事ご夫妻や首席領事、及びJ氏、皆と熱い握手をして感想を聞いた。皆さん非常に喜んでくださり、(3人ともに)「大成功、ともかくお客さんの反応がすごい。」

是非またやりましょうと言ってくださり、我々も本当に肩の荷が下りた気がした。

とにかく、メンバーは興奮状態。
またその家族も同様、何か口々に言っては抱きつかれた。

最後に
幾つかの困難があろうと前進する気持ちがあれば道は開かれる。
人に教える事こそ自分の勉強になる。ノーガッツ・ノーグローリ

人の差別は出来ない、しない。
今日のコンサートに知的障害者の方が何人か車椅子で来られていて、終演後盛んに私に握手を求める。手を差し出し、握手すると何か英語で話しているのだが、不思議な事に心が伝わってきて本当に心の声が聞こえているような錯覚に陥った。
涙が出そうになった。人の心の襞に触れられた。初めての感覚だった。彼らの言葉にならない喜びの心の声を聞けた・・・ 感無量。デンバーに来てよかった。全ての携わった人に感謝。

総評として

1.まず海外におけるレクチャー&デモンストレーション及び公演には通訳者の力によりその内容が大きく左右する。私のようにほとんど英語が話せない場合は特に、通訳者の能力が大きく問われるだろう。今回、バイリンガルの影山を同行できたことは大変良かった。デンバーに来て通訳の方に会い、打ち合わせをしたが的をえず、それでも一応デンバー太鼓の指導時に彼に通訳を頼んだがやはり、専門的用語や日本語の意味、こちらの意図する所がメンバーに伝わらない。途中で影山に「何と言えばいいの」と何度も聞き返すなど、あまり意味をなさない。特に我々のように“技能者”の場合は専門知識が必要となるので、今回の影山の功績は大きかった。

また、和太鼓のレクチャーは一人でも十分に行えるが、演奏となると一人では限られる。デンバーではレクチャーよりも演奏を望まれた。日本の太鼓の歴史や楽器の種類、用途などよりも効果音や演奏が望まれていた。

「言葉よりも体験」

2.受け入れ側との接し方

基本的には問題は何も無かったが、時として不親切なところがあった。

それはピックアップして現地へ向かうのに、我々は楽器の搬入、着替え、舞台の広さ、音の帰りなど計算して出発時間を考える。毎回のように移動時間を尋ねたが、はっきりと答えてはもらえなかった。
時間にいい加減であった。(人によるものか? アメリカ時間か?)
この事に関しては、相当なストレスが溜まったことは確実である。

3.デンバー太鼓の指導について

メンバーそれぞれ色々な仕事につき、事情もあったと思うが日々成長していってくれて大変嬉しく思った。始めは友達のような付き合い方から先生と弟子のような関係になっていった。私は私なりに全力で彼らと向き合い、3週間と短い期間であったが学校公演のノウハウや技能者としてのプライド、私が心血を注いできた曲目を伝授出来て満足である。ただ、締め太鼓だけがどうしてもこの期間内だけでは教え切れなかったので課題として残す事にした。(元々デンバー太鼓には締め太鼓のソロパートが存在しなかった。)

デンバー太鼓の所有している太鼓について:
大太鼓 2
中太鼓 11
締め太鼓 4
大拍子 2
小物が幾つか

楽器は、正直に言ってひどい状態で、演奏などに使えるものではない。
この3週間だけで2個の太鼓が破けてしまった。
破けた理由として、
1.皮が古い
2.彼らが初めて本気になって打った
3.全身を使って打てるようになった
4.今までは太鼓の面のどこでもいいから当たりさえすれば良かったが、確実に、中心部分を打つようになった

日本の本物の太鼓を打たせてあげたい。と切望する。

あとがき
今回、幸運にも文化交流使に選ばれた事を、大変光栄に思っております。
デンバー太鼓にも充分に指導が出来、又、最後のコンサートも最高の形で終える事が出来ました。
次回には、この経験と教訓を生かし、もっと成果が挙げられるよう努力したいと思います。

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感想  影山伊作

デンバー太鼓自体が日本の太鼓チームと違う役割を果たしている。
彼らにとって太鼓は、デンバー地域の日系アメリカ人がコミュニケーションを取る手段、日系アメリカ人としてのアイデンティティーを確認しあう手段。
だから上手くなる必要なんか無い。苦しい思いをする必要なんか無い。皆がコミュニケーションを取れればいいんだしアイデンティティーを確認できればいいんだから。その為だけなら、私達が行く前のデンバー太鼓で充分なのではないだろうか。

デンバー太鼓は日本で言う将棋クラブとか麻雀サークルです。そこに将棋麻雀のプロが行って辛くて地味な稽古をやれっていっても手ごたえが無いのと同じです。実際、リハーサルなどは正直言って楽しくないし、疲れるし、デンバー太鼓からすれば膨大な量の(余分な)仕事になる。舞台所作や基礎なんかも退屈だし大事さを分かっていない人は何故やっているのか、と思うに違い無い。「先生がやれって言うならやるけど、本当にそこまでする必要があるのかな」そう感じているのではないだろうか。

デンバー太鼓の人たちはご飯を食べさせてくれたり色々してくれてます。悪い人達じゃない。むしろ本当に良い人達です。でも太鼓をやっている理由が僕とはあまりにも違いすぎる。そして「師弟関係」を分かっていない。「芸を習う事」がどういう事か全然分かっていない。

残念ながらデンバー太鼓にとって自分達は「太鼓が上手くてすごく優しい人達」。「先生」と言う言葉を良く分かっていないし、「先生先生」って言うけど、「生徒・弟子」であると言う事を良く分かっていないんじゃないか。僕なんかは先生じゃないからいいんですが、先生は先生でないと・・・。先生の優しさに甘えて、彼らは本当の先生の意味を理解するところまでいかなかったように、思います。

実際デンバー太鼓は上手くなったし、太鼓を地域に広める事に成功しました。だから文化交流使としては満点だったと思います。

でも、自分達が帰ったらデンバー太鼓は元の太鼓に戻ってしまうのではないでしょうか。

何故彼らが太鼓をやっているのか。

今回の渡米で、自分の中では色々見えた3週間だったし、本当に学ぶ事が多かった3週間でした。